『幻想水滸伝 ティアクライス』をメインとしたファンブログです。
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あ、そうそう。
ティアクライスやってて、何度も佐々木淳子の『霧ではじまる日』を思い出しました。
佐々木先生は、同じ1日を繰り返し続ける『霧ではじまる日』の他にも、ある一定の期間を繰り返し続けるという作品を描いてますが、やはり、“同じ1日を繰り返し続ける”という点で、まず『霧ではじまる日』を連想してしまいますね……。
ティアクライスやってて、何度も佐々木淳子の『霧ではじまる日』を思い出しました。
佐々木先生は、同じ1日を繰り返し続ける『霧ではじまる日』の他にも、ある一定の期間を繰り返し続けるという作品を描いてますが、やはり、“同じ1日を繰り返し続ける”という点で、まず『霧ではじまる日』を連想してしまいますね……。
ティアクライスの“同じ1日”(一なる王が作り出す世界)と、『霧ではじまる日』の“同じ1日”大きな違いは、一なる王の作り出す“同じ1日”が、個人個人、無意識にせよ何にせよ、それぞれに“幸せ”とする1日を繰り返し続けるのに反し、『霧で~』で繰り返される1日は、そんなきめ細やかな個人対応なんてしてなかったところですね。
だから、いきなり繰り返されるようになった“同じ1日”(=今日)、辛い思いや厭な事と遭遇してしまった人は、延々とそれに遭遇し続けるんですね。
物語は、時間跳躍能力を持つ主人公(けれど自分にそんな力があった事は、過ぎていく時間と繰り返す日々の中で忘れてしまっている)が、その日に妹を亡くした兄に見付け出されるところから始まるんですが、そのお兄さんが時間跳躍(=“昨日”に行ける人)を探していた理由というのが、妹をちゃんと死なせてやりたいという、ものすごく辛いものなんですね。
ループする“今日”に亡くなってしまった妹さん(これがまた儚げで健気な幼い美少女……)、“今日”が繰り返される為に、毎日息を引き取るのです。
だから、“ちゃんと死なせて”やりたい、と。(※妹は生来の病弱による他界なので、その日に死なないようにするという選択肢はない)
オチを言ってしまいますが、主人公はその兄の気持ちを受け、すっかり忘れ果てていた時間跳躍能力で“昨日”に跳び、繰り返す“今日”の前日、“今日”が繰り返されるようになる前の“本当の昨日”には“なかった事件”を起こすわけです。
で、“なかった事件”が起きた為に、“歴史”は変更され、なぜだか繰り返されてきた“今日”は、“明日”を迎える事の出来る“普通の今日”になるわけですが、でも、変更された歴史(時間)の中に生きる主人公以外の人たちは、主人公の家族はもちろん、主人公に“繰り返す今日”を壊す事を求めたお兄さんも、“今日”が繰り返されていた日々があった事も、そのせいで妹が毎日息を引き取っていた事も知らないんですね。
忘れてしまったのではなく、“知らない”んです。
で、“繰り返される今日”から人々を救出した主人公は、“昨日、事件を起こした少年A”として手配されてしまう、と。
……報われない……。あまりにも報われない話ですね……。
彼にとって唯一の報いは、彼以外は誰もしらない“今日”、毎日息を引き取らねばならなかった少女が二度と息を引き取らずに済んだ事(“死ぬ”事に慣れなくてもよくなった事)、お兄さんが大事な妹を毎日看取らなくてよくなった事(妹を失った事にちゃんと嘆けるようになった事)なんですが、それにしたって、主人公とそのお兄さんが知り合ったのは、“今日”が繰り返すようになってからだったので、主人公がそのお兄さんに会いに行っても、お兄さんにとっては、妹の通夜に突然やってきた、見ず知らずの少年A(ニュースで報道されるくらいの事件を起こしたので、お兄さん、趣旨先行の事を犯罪者としては知ってる)なわけです。
そんなあまりにもやるせない結末の作品を知っていただけに、ティアクライスでは、少なくとも主人公の他に107人もの仲間が、書き換えられる前の世界の記憶を知っている(思い出せる)という点は、ある意味、かなり救いでした(^^;)
……でもまぁ、いくらそれぞれの“幸せ”な1日が繰り返されるからといって、そこから先がない世界というのもね……。
それはそれで、本当の意味では幸せとはいえない世界だろうとは思いますが、だけど、もしも本当に絶望するような事があって、その中で生きていくしかないとすれば、そしてもしも幸せだった時に戻れる手段があったとしたら、それを選択せずにいられるか(その手段を無視して絶望の中で生き続けていく事を選べるか)となると、やっぱりちょっと、考えてしまったりも致します(^^;)
“幸せだった1日”で時間を止めて、その日をただ繰り返すだけなら死んでいるのも同じではないか、というのは、確かにその通りだとも思いますが。
つーかベルフレイドの最大の誤りは、自分だけでその世界に行こうとしなかった“善意”でしょうなぁ……。
まぁ、自ら進んで協会に入る人たちだけで協会が成立していた頃は、その“善意”も“善意”のままである事が出来たのでしょうが。
要するに、自ら望んでやってくる人たちだけでその世界に行くには、その世界ってのはあまりに遠かった(書が足りない)ってのが、最大の問題点だったのでしょう。
まぁ、そういう“完全な世界”ってのは、人の手で招くのはあまりにもアレ過ぎるってのは、ねぇ……。
なんとも暴力的な言い様になってしまいますが、一時は積極的な武力侵攻(……)を行ったキリスト教はかれこれ2000年を越えても目指す世界には到達出来ていませんし、仏教なんてその世界の到来を億単位の年月をもってで予言(?)してますしねぇ。
あ、そういえば、ある説によりますと、いわゆる“あの世”って世界は、自分がもっとも良かった時代の姿で暮らせるものだとか。
……なるほど、その説を採るなら、“一なる王”の世界って確かにあの世だ……(笑)
やっぱ生きながらあの世に行くのはイヤだなぁ……。
あの世にはちゃんと死んでから行きたいものですわ……。
だから、いきなり繰り返されるようになった“同じ1日”(=今日)、辛い思いや厭な事と遭遇してしまった人は、延々とそれに遭遇し続けるんですね。
物語は、時間跳躍能力を持つ主人公(けれど自分にそんな力があった事は、過ぎていく時間と繰り返す日々の中で忘れてしまっている)が、その日に妹を亡くした兄に見付け出されるところから始まるんですが、そのお兄さんが時間跳躍(=“昨日”に行ける人)を探していた理由というのが、妹をちゃんと死なせてやりたいという、ものすごく辛いものなんですね。
ループする“今日”に亡くなってしまった妹さん(これがまた儚げで健気な幼い美少女……)、“今日”が繰り返される為に、毎日息を引き取るのです。
だから、“ちゃんと死なせて”やりたい、と。(※妹は生来の病弱による他界なので、その日に死なないようにするという選択肢はない)
オチを言ってしまいますが、主人公はその兄の気持ちを受け、すっかり忘れ果てていた時間跳躍能力で“昨日”に跳び、繰り返す“今日”の前日、“今日”が繰り返されるようになる前の“本当の昨日”には“なかった事件”を起こすわけです。
で、“なかった事件”が起きた為に、“歴史”は変更され、なぜだか繰り返されてきた“今日”は、“明日”を迎える事の出来る“普通の今日”になるわけですが、でも、変更された歴史(時間)の中に生きる主人公以外の人たちは、主人公の家族はもちろん、主人公に“繰り返す今日”を壊す事を求めたお兄さんも、“今日”が繰り返されていた日々があった事も、そのせいで妹が毎日息を引き取っていた事も知らないんですね。
忘れてしまったのではなく、“知らない”んです。
で、“繰り返される今日”から人々を救出した主人公は、“昨日、事件を起こした少年A”として手配されてしまう、と。
……報われない……。あまりにも報われない話ですね……。
彼にとって唯一の報いは、彼以外は誰もしらない“今日”、毎日息を引き取らねばならなかった少女が二度と息を引き取らずに済んだ事(“死ぬ”事に慣れなくてもよくなった事)、お兄さんが大事な妹を毎日看取らなくてよくなった事(妹を失った事にちゃんと嘆けるようになった事)なんですが、それにしたって、主人公とそのお兄さんが知り合ったのは、“今日”が繰り返すようになってからだったので、主人公がそのお兄さんに会いに行っても、お兄さんにとっては、妹の通夜に突然やってきた、見ず知らずの少年A(ニュースで報道されるくらいの事件を起こしたので、お兄さん、趣旨先行の事を犯罪者としては知ってる)なわけです。
そんなあまりにもやるせない結末の作品を知っていただけに、ティアクライスでは、少なくとも主人公の他に107人もの仲間が、書き換えられる前の世界の記憶を知っている(思い出せる)という点は、ある意味、かなり救いでした(^^;)
……でもまぁ、いくらそれぞれの“幸せ”な1日が繰り返されるからといって、そこから先がない世界というのもね……。
それはそれで、本当の意味では幸せとはいえない世界だろうとは思いますが、だけど、もしも本当に絶望するような事があって、その中で生きていくしかないとすれば、そしてもしも幸せだった時に戻れる手段があったとしたら、それを選択せずにいられるか(その手段を無視して絶望の中で生き続けていく事を選べるか)となると、やっぱりちょっと、考えてしまったりも致します(^^;)
“幸せだった1日”で時間を止めて、その日をただ繰り返すだけなら死んでいるのも同じではないか、というのは、確かにその通りだとも思いますが。
つーかベルフレイドの最大の誤りは、自分だけでその世界に行こうとしなかった“善意”でしょうなぁ……。
まぁ、自ら進んで協会に入る人たちだけで協会が成立していた頃は、その“善意”も“善意”のままである事が出来たのでしょうが。
要するに、自ら望んでやってくる人たちだけでその世界に行くには、その世界ってのはあまりに遠かった(書が足りない)ってのが、最大の問題点だったのでしょう。
まぁ、そういう“完全な世界”ってのは、人の手で招くのはあまりにもアレ過ぎるってのは、ねぇ……。
なんとも暴力的な言い様になってしまいますが、一時は積極的な武力侵攻(……)を行ったキリスト教はかれこれ2000年を越えても目指す世界には到達出来ていませんし、仏教なんてその世界の到来を億単位の年月をもってで予言(?)してますしねぇ。
あ、そういえば、ある説によりますと、いわゆる“あの世”って世界は、自分がもっとも良かった時代の姿で暮らせるものだとか。
……なるほど、その説を採るなら、“一なる王”の世界って確かにあの世だ……(笑)
やっぱ生きながらあの世に行くのはイヤだなぁ……。
あの世にはちゃんと死んでから行きたいものですわ……。
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HN:
比さ奈
性別:
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